広島市民球場跡地利用市民研究会ホームページ

願いと希望

建物やデザインされた象徴的な造形物が目立つのではなく、それぞれの生き物が、それぞれの行為や活動を通して、主役を演じているような場所となって欲しい。広島ならではの、カープ的な「魅力あるシンプルな素朴さ」を大切にして。 隣接する世界遺産や重要文化財に負けないくらいの、しかし別次元の、異なった魅力のある空間になってほしい。

平和へのメッセージや表現、交流によって、平和の種が世界中に飛び散って根付き、芽を出し実を結び、また種をつくっていく。 一方で、それぞれの根が、網状につながり合って、しっかりと結びついて、戦争やテロ、兵器の開発や環境破壊といった負の要因を封じ込めていくような、そんな流れのきっかけが、この場所から生まれることを願って(大国が力で抑え込む時代ではなくなった現在、分散化し見えにくくなっていく負の要因は、正の平和へのネットワークで地道に包みこんでいくしかない)。

国家レベルや都市レベルだけでなく、より豊かな「市民レベルでの平和へのネットワークの構築」が、今必要とされている。

「広島市民球場跡地という場に展開される、平和への市民創造にかけてみたい。」

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■a)現在の恐怖

人は、いつの時代も、様々な恐怖と対峙しながら生きてきた。現在の恐怖とは、何か。

1.人からの恐怖

現在、人から受けるもので、身近にせまり寄る恐怖として3つ挙げられる。 

    

@核の小型化、Aテロ、B兵器のロボット化  

  

@劣化ウラン弾や、それに類する小型核兵器で、核兵器ではないと身勝手に解釈されて使われたり、国家でなくても、小さなレベルでそれらを持てる可能性がでてきた。

A私たちはすでに、テロの危険性のある社会に生きており、誰から、いつ、どこで襲われるかわからない状態になってきている。

B自律飛行型の軍事戦闘機をはじめとする、よりロボット化された様々な軍事兵器で、モニターを見ながら、ゲーム感覚で、目標地点に爆弾を落としたり、予めプログラムしておいて、ロボットに人を殺させる、といったことが可能となってきている。

このように、これまで以上に、人を人として見ないで簡単に殺すといった行為が、時と場所を選ばずに、行われる可能性が広がってきている。

今まさに、爆弾が落されようとしている側の生の声や姿が、落そうとしている者たちのところへ飛び込んでくるような、そんな映像システムはできないものだろうか。

小さき者が、大きな力を手にすることができる。

小さき者が、相手に姿を見せずに、その力を行使することができる。

小さき者が、相手を見ずに、その力を行使することができる。

そして、その小さき者たちの、見えない負(恐怖)のネットワークが広がってきている。

2.人以外からの恐怖

  

映画や小説などで、未来に、遠い宇宙からやってきた宇宙人によって人類が侵略されるといったストーリーはあったが、実際は足下からで、地球からの攻撃が始まるだろう。その原因は確かに人類にあるのであるが、天災、地球温暖化の影響、菌レベル(鳥インフルエンザ、新型エイズウイルス、ドウモイ酸など)の攻撃など、大きなレベルから小さなレベルまで、あちこちで、あらゆる攻撃が起こると考えられる。 建築家バックミンスター・フラーの地球船宇宙号という考え方。人のための乗り物として地球を捉えるのではなく、むしろ一つの生命体として、我々は対話していかなければならない。我々の胃や細胞といったそれぞれの単位も、人の一部ではあるが、階層の異なるだけの意思をもった総体として捉えることへと関係しており、その大きな単位として地球がある。京都議定書から逃げた国々は、直ちに対話のテーブルへもどるべきであろう。 日本の人口の減少の始まりは、島国という枠内での飽和点の発見であり、一つの選択でもある。当分は厳しい状況が続くだろうが、このことを肯定的にとらえ、より生まれたら死なない幸せな社会へと進んでいってほしい。

現在は、人の自由を無限に追及している場合でもなく、国をまとめる手段(理念)として使うべきでもない。人の自由と権利の一部を取り崩してでも、地球をはじめとした人類以外の生き物たちの自由と権利を、尊重しなければならない時期にきている。

■b)それらの恐怖に対して

想像してごらん、国境のない世界を というジョン・レノンの言葉がある。

想像してごらん、相手の存在を

想像してごらん、相手の顔を

この簡単なことさえ出来ていれば、あの悲劇もおこらなかったのではないだろうか。

岡本太郎の言葉。

もし世界が変えられないなら、変えることの出来るものがある。それは自分自身である。自分というミクロ宇宙。(「再生の歓喜」『眼 美しく怒れ』チクマ秀版社、1998年。初出は『週刊朝日』朝日新聞社、65年の連載「岡本太郎の目」)

兵器の開発も止まらない、戦争もテロも、核兵器も、国家、民族、宗教の対立も無くならない、この現状。

ただ、一人一人が変わっていくこと、自分自身を変えることは、できる。

 

そして結局は、コミュニケーションの問題であると思われる。しかし、今のインターネット上のコミュニケーションは、メールのやりとりや掲示板、ブログなどを見ていると、ある種の不安につきまとわれる。たまに、我を忘れたかに思える、ひどいやりとりを見ることがある。そこには、オセロで白でほとんど埋まっていた盤面が、突如として真っ黒になってしまうような、そんな危険が潜んでいるように思われる。

会って、顔を見て話しあう(直接対話)。それが出来ない場合は、直筆の手紙や伝言板といった、血のかよったコミュニケーション。そしてそれらのネットワーク化。

大国の力で押さこむことのできる時代は、終わった。

相手の顔を思い描くことと、平和を願い地球を想う、血の通ったコミュニケーションのネットワーク化によってのみ、負(恐怖)のネットワークを封じ込め、大地の怒りを静めることができるのではないだろうか。

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